3回目の連絡で移植 30年余りの透析から離脱
東京都 男性 56歳(移植までの血液透析歴31年)
私は2011年春に献腎移植を受け、31年間の透析治療から離脱しました。高校1年生で腎臓病と分かり、大学4年生の春に透析導入となりました。透析の初期は、強い貧血と闘いながら「透析をすることは辛い、苦痛なこと」と日々感じていました。透析も30年近くなると合併症で苦労しました。将来、車椅子や寝たきりになった自分を想像することは、何よりもいちばん辛く、恐怖を感じました。
献腎移植の登録は27年くらい前に、当時の国立佐倉病院で行いましたが、登録しても移植できないだろうと漠然と思っていたことを記憶しています。
最初の献腎移植の連絡は2005年ごろでした。そのときは4番目の候補ということで実現しませんでした。ただ、連絡があったことで移植の可能性が少なからずあることを確信しました。
2回目の連絡は2010年の秋でした。腎臓の状態があまり良くないと説明を受け、お断りしました。場合によっては命に関わることがあると説明され、移植に少し恐怖感を持ちました。
そして2011年の春、3回目の連絡がありました。前回の経緯もあり、不安を持ちながらも移植を希望することを先生に伝えました。当初、3番目の候補でした。その後、2番目に繰り上がり、「本当に移植するんだ」と思うと、今までに経験したことのない緊張感が全身を走りました。
週末に連絡があり、週明けに移植の検査を行う予定で自宅待機をしました。この間、「長期間透析をしてきたので、本当に移植ができるのか」「拒絶反応や感染症は大丈夫なのか」「断ればよかったのではないか」「入院はどのぐらいになるのか」など、期待よりも不安が多く、気持ちが沈み、夜も十分な睡眠が取れませんでした。
月曜日の午前4時に緊急呼び出しを受け、術前の検査、透析を行い、午後3時30分から手術を受けました。午後10時30分ごろに手術は終わったようでしたが、睡眠不足もあり翌朝まで熟睡し、手術後というよりは朝までよく寝たというのが実感でした。目が覚め、落ち着くとすぐにドナーの方のことを考えました。当然、ドナーの方の情報はなく、想像するだけでしたが、ドナーの方への心からの感謝と移植を受けるためには人の死が存在することの重みを改めて実感しました。それは、私にとって非常に重く、形容しがたいものでした。
心停止後の移植なので、すぐには尿が出ず、1週間程度で徐々に腎臓が機能し、透析は術後3回で離脱しました。移植術による苦労はほとんどなかったのですが、30年以上使っていなかった膀胱は非常に小さく、排尿の管理にとても苦労しました。しばらくはオムツを使い、オムツが取れてトイレに行くようになって実感したのは、透析生活の中で「オシッコ」に行く習慣がなかったことでした。38日間の入院後、退院、職場復帰をしましたが、しばらくはトイレに苦労する日々でした。
術後、大きなトラブルはなく、薬の服用、食事管理(食べ過ぎないよう)、血圧管理、体重管理、感染予防など透析のころと変わらない自己管理を行っています。外来受診は術後は月に1回でしたが、4年経った現在は2か月に1回のペースになっています。
ドナーの方をはじめ多くの方のご支援で献腎移植を受けることができたことに感謝し、私も何かしらの形で社会への還元ができればと願っています。
私は2011年春に献腎移植を受け、31年間の透析治療から離脱しました。高校1年生で腎臓病と分かり、大学4年生の春に透析導入となりました。透析の初期は、強い貧血と闘いながら「透析をすることは辛い、苦痛なこと」と日々感じていました。透析も30年近くなると合併症で苦労しました。将来、車椅子や寝たきりになった自分を想像することは、何よりもいちばん辛く、恐怖を感じました。
献腎移植の登録は27年くらい前に、当時の国立佐倉病院で行いましたが、登録しても移植できないだろうと漠然と思っていたことを記憶しています。
最初の献腎移植の連絡は2005年ごろでした。そのときは4番目の候補ということで実現しませんでした。ただ、連絡があったことで移植の可能性が少なからずあることを確信しました。
2回目の連絡は2010年の秋でした。腎臓の状態があまり良くないと説明を受け、お断りしました。場合によっては命に関わることがあると説明され、移植に少し恐怖感を持ちました。
そして2011年の春、3回目の連絡がありました。前回の経緯もあり、不安を持ちながらも移植を希望することを先生に伝えました。当初、3番目の候補でした。その後、2番目に繰り上がり、「本当に移植するんだ」と思うと、今までに経験したことのない緊張感が全身を走りました。
週末に連絡があり、週明けに移植の検査を行う予定で自宅待機をしました。この間、「長期間透析をしてきたので、本当に移植ができるのか」「拒絶反応や感染症は大丈夫なのか」「断ればよかったのではないか」「入院はどのぐらいになるのか」など、期待よりも不安が多く、気持ちが沈み、夜も十分な睡眠が取れませんでした。
月曜日の午前4時に緊急呼び出しを受け、術前の検査、透析を行い、午後3時30分から手術を受けました。午後10時30分ごろに手術は終わったようでしたが、睡眠不足もあり翌朝まで熟睡し、手術後というよりは朝までよく寝たというのが実感でした。目が覚め、落ち着くとすぐにドナーの方のことを考えました。当然、ドナーの方の情報はなく、想像するだけでしたが、ドナーの方への心からの感謝と移植を受けるためには人の死が存在することの重みを改めて実感しました。それは、私にとって非常に重く、形容しがたいものでした。
心停止後の移植なので、すぐには尿が出ず、1週間程度で徐々に腎臓が機能し、透析は術後3回で離脱しました。移植術による苦労はほとんどなかったのですが、30年以上使っていなかった膀胱は非常に小さく、排尿の管理にとても苦労しました。しばらくはオムツを使い、オムツが取れてトイレに行くようになって実感したのは、透析生活の中で「オシッコ」に行く習慣がなかったことでした。38日間の入院後、退院、職場復帰をしましたが、しばらくはトイレに苦労する日々でした。
術後、大きなトラブルはなく、薬の服用、食事管理(食べ過ぎないよう)、血圧管理、体重管理、感染予防など透析のころと変わらない自己管理を行っています。外来受診は術後は月に1回でしたが、4年経った現在は2か月に1回のペースになっています。
ドナーの方をはじめ多くの方のご支援で献腎移植を受けることができたことに感謝し、私も何かしらの形で社会への還元ができればと願っています。
血液型の違う夫からの生体腎移植
群馬県 清水伸子さん 49歳(透析歴16年)
22歳ごろからタンパク尿を指摘され少しずつ数値が悪くなっていき、透析導入前は1年間、薬物療法の治療を受けながら入院していました。この入院期間がとても辛かったんです。だから、32歳で透析導入となったとき、「入院生活から解放される!」という思いの方が強かったですね。導入後1年ぐらいで休職していた会社に復帰、午前中に透析を受けてから勤務していました。治療後で体がしんどい日もありましたが、理解を示してくれた会社に感謝する日々でした。
それから8年ぐらいは医師に言われるままのいわゆる「お任せ透析」で過ごしてきましたが、40歳の時に拡張型心筋梗塞の合併症を発症し、何種類かの薬が合わなければ、透析をしながら死を待つしかないということを医師から宣告され、はじめて透析と向き合いました。「もうダメかもしれない……」そう思ったとき、もっと透析を真剣に考え、透析療法を知らなくては!と痛感したのです。そこで、合併症の治療と並行して透析療法の仕組みや治療、自分に合った食事や水分の管理、薬の飲み方などを必死に模索、それまでは何となく参加していた患者会の勉強会にも積極的に参加するようになりました。
生体腎移植に意識が向いたのは、通院先で行われた勉強会がきっかけでした。その日はたまたま主人が自宅にいたので一緒に参加しました。実は、献腎移植登録は透析導入後すぐにしていたのですが、ずっと連絡がなく、自分とは関係のない話だと思っていました。でも、その勉強会で聞いた生体腎移植の話は、私が「移植は難しい、大変だ」とイメージしていたのとはまったく違い、「こんなに簡単なの!」とまさに目からウロコのような内容でした。
透析をしていると、遊びに出かけても自由に泊まったりできない不便さや、透析スケジュールを考えて外出の計画を立てなければならない面倒さなども感じていて、できるならば移植をしてみたいという思いが膨らみました。ただ、いくら夫婦といっても、主人に腎臓を提供してもらえるかどうか相談するのもやはりためらわれました。主人も移植にまったくイメージがわかなかったようで、取りあえず適合するかの検査だけでも受けてみようということになりました。そのときは、血液型も違うしどうせ合わないだろう…という気持ちでした。ところが、主人の休みを利用して2日間の猛スピードで検査したところ、適合という結果でした。主人の仕事のことも考え、定年まで待とうかとも話しましたが、先生からは私自身の体を考えてもできれば早く、と言われました。移植手術をすると仕事をしばらく休む必要があるので、そのことも不安でしたが、主人は会社で「奥さんのために素晴らしいですね」と言われたようで、そのひと言が彼の迷っていた気持ちを後押しし、「決めてよかった」と実感したそうです。私自身も、その安心した顔を見てホッとできました。
そして2013年4月24日に手術、執刀医も驚くほど順調な手術と経過で5月15日に退院しました。今は主人も会社に元気に復帰し、私も6月末には患者会の仕事(群馬県腎臓病患者連絡協議会の事務局勤務)に復帰しました。
まだ、移植したという実感は薄いのですが、透析治療について必死に勉強したことも、関係ないと思っていた移植を実行できたことも、患者会に入って勉強会に参加したり、実際に関わっている人たちから話を聞けたからだと思います。どんなにインターネットで情報を得られるようになっても、実際に会って話を聞くというコミュニケーションは、どの時代でもいちばん大切で、自分自身に返ってくるプラスの要素だと思います。私の体験を仲間に聞いてもらって、みんなに希望を持ってもらえるような活動をしていきたいと思っています。
22歳ごろからタンパク尿を指摘され少しずつ数値が悪くなっていき、透析導入前は1年間、薬物療法の治療を受けながら入院していました。この入院期間がとても辛かったんです。だから、32歳で透析導入となったとき、「入院生活から解放される!」という思いの方が強かったですね。導入後1年ぐらいで休職していた会社に復帰、午前中に透析を受けてから勤務していました。治療後で体がしんどい日もありましたが、理解を示してくれた会社に感謝する日々でした。
それから8年ぐらいは医師に言われるままのいわゆる「お任せ透析」で過ごしてきましたが、40歳の時に拡張型心筋梗塞の合併症を発症し、何種類かの薬が合わなければ、透析をしながら死を待つしかないということを医師から宣告され、はじめて透析と向き合いました。「もうダメかもしれない……」そう思ったとき、もっと透析を真剣に考え、透析療法を知らなくては!と痛感したのです。そこで、合併症の治療と並行して透析療法の仕組みや治療、自分に合った食事や水分の管理、薬の飲み方などを必死に模索、それまでは何となく参加していた患者会の勉強会にも積極的に参加するようになりました。
生体腎移植に意識が向いたのは、通院先で行われた勉強会がきっかけでした。その日はたまたま主人が自宅にいたので一緒に参加しました。実は、献腎移植登録は透析導入後すぐにしていたのですが、ずっと連絡がなく、自分とは関係のない話だと思っていました。でも、その勉強会で聞いた生体腎移植の話は、私が「移植は難しい、大変だ」とイメージしていたのとはまったく違い、「こんなに簡単なの!」とまさに目からウロコのような内容でした。
透析をしていると、遊びに出かけても自由に泊まったりできない不便さや、透析スケジュールを考えて外出の計画を立てなければならない面倒さなども感じていて、できるならば移植をしてみたいという思いが膨らみました。ただ、いくら夫婦といっても、主人に腎臓を提供してもらえるかどうか相談するのもやはりためらわれました。主人も移植にまったくイメージがわかなかったようで、取りあえず適合するかの検査だけでも受けてみようということになりました。そのときは、血液型も違うしどうせ合わないだろう…という気持ちでした。ところが、主人の休みを利用して2日間の猛スピードで検査したところ、適合という結果でした。主人の仕事のことも考え、定年まで待とうかとも話しましたが、先生からは私自身の体を考えてもできれば早く、と言われました。移植手術をすると仕事をしばらく休む必要があるので、そのことも不安でしたが、主人は会社で「奥さんのために素晴らしいですね」と言われたようで、そのひと言が彼の迷っていた気持ちを後押しし、「決めてよかった」と実感したそうです。私自身も、その安心した顔を見てホッとできました。
そして2013年4月24日に手術、執刀医も驚くほど順調な手術と経過で5月15日に退院しました。今は主人も会社に元気に復帰し、私も6月末には患者会の仕事(群馬県腎臓病患者連絡協議会の事務局勤務)に復帰しました。
まだ、移植したという実感は薄いのですが、透析治療について必死に勉強したことも、関係ないと思っていた移植を実行できたことも、患者会に入って勉強会に参加したり、実際に関わっている人たちから話を聞けたからだと思います。どんなにインターネットで情報を得られるようになっても、実際に会って話を聞くというコミュニケーションは、どの時代でもいちばん大切で、自分自身に返ってくるプラスの要素だと思います。私の体験を仲間に聞いてもらって、みんなに希望を持ってもらえるような活動をしていきたいと思っています。